てぃーだブログ › たーしーのはんせい記〜豊見城高校野球部11期〜

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2008年04月22日

栽先生の遺品



日時:5月20日(火)18:30受付
ところ:沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ6階ニライカナイの間 

故 栽 弘義を偲ぶ会の資料です
生前の栽先生との思い出が蘇ります
泣きながら、確認し、整理してます

何か不思議な感覚です
今、大事な資料が目の前にあります
恩師を思う私の気持ちが伝わったのか
大役を任せられました

栽先生のおもいを正確にまとめ
偲ぶ会に貢献できるよう努めます  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 11:24Comments(3)栽先生

2008年04月17日

南部の時代

春季九州高校野球大会

4月19日から始まる春季九州高校野球大会に出場する沖縄尚学と浦添商業が16日に長崎へと出発しました。先日のチャレンジマッチでは浦添商業がセンバツの覇者・沖縄尚学を8:1という大差で粉砕しました。ある程度予想されていたとはいえ、いいとこなしの沖尚はショックだったでしょう。でもいい刺激でした。

しょせん発達途上の高校生、たとえ1週間でも気を抜くとそういう結果になるということですね。沖尚の東浜くんや伊古くんの故障も気になります。それにしても浦商の投打は圧巻でした。日本一どころか高校野球世界一をあげたいくらいです。中学野球も含めてほんとに沖縄の野球レベルは上がりました。近いうち「沖縄を制するものは全国を制す」の言葉も聞かれるでしょう。

さて、30年前シリーズですが、我が豊見城高校と南風原高校が揃って春季九州高校野球大会(福岡)に出場しました。両校とも南風原とその近隣出身者が多くいわゆる南部連合といった感じでした。伊良皆さんらはいまだに県軟式野球の第一線で活躍しています。

「南部の時代」がたしかにあったんですね。近所の少年野球関係者の皆さんと子供たち、あの南部の時代をもう一度再現してほしいです!!


  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 10:53Comments(2)南部の時代

2008年04月12日

青春ドラマ

青春ドラマ/甲子園秘話


これから紹介する青春ドラマは、赤嶺賢勇先輩が豊見城高校から東京巨人軍に入って2年後、沖縄での出来事です。雑誌『センブンティーン』に掲載された記事です。『センブンティーン』といえば女子高校生向けのアイドルやファッションの情報雑誌。男はまず見ない読まない本ですが、そんな雑誌の特集に我が豊見城高校野球部11期が載ったのです。ということは我々は「アイドル」になったかもしれないという幻想を抱いたりしちゃったりもします。しかし期待されながらセンバツで初戦敗退したあとの取材記事ですから内容はまあ暗い暗い。でも青春ドラマ仕立てでかっこよく書かかれてあります。さっそくひもといてみましょう。

涙は夏までおあずけだ!

桐生3−1豊見城。試合は終わった。しかし、負けた豊見城は、バッテリーの神里くん、石嶺くんをはじめ、だれひとり甲子園の土を持っていこうとしなかったし、涙なんか見せなかった。泣くのは、夏の大会で優勝したとき。今日からは、夏をめざして、練習開始だ…ーーーと。(泣くのを必死にこらえ「巨人の星」の青雲高校の如く夕日に向かって走り出す選手たち)ハイッ、カットカット! (何の撮影や!)








これは実話です。実際、夏に向けて死ぬほど練習してました。  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 03:59Comments(5)青春ドラマ

2008年04月09日

赤嶺賢勇氏最新情報

夏に向けた準備が全国一遅い

沖縄尚学、優勝おめでとうございます。

4/5の沖縄タイムスで赤嶺先輩のコメントがありました。
赤嶺賢勇氏(豊見城高校のエースとして1975年春のセンバツで県勢初の8強入り)


赤嶺さんの最新の情報です。

荒井幸博氏のブログ『荒井幸博TODAY』というブログに掲載されていました。
タイトル:沖縄尚学優勝の翌日に赤嶺賢勇さんと


  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 17:46Comments(4)沖尚の躍進08年

2008年04月08日

深紅の優勝旗に”万歳“



深紅の優勝旗をしっかり両手で握った、島袋キャプテンを先頭に、
空港ロビーに入ってきた豊見城高野球部=那覇空港

深紅の優勝旗だからといっても夏の甲子園ではありません。
1977年秋に県勢として初めて九州を制覇して凱旋帰沖したときの様子です。今回の沖尚ほどの騒ぎではないが、当時としては学校や高野連関係者を中心に大歓迎を受けた記憶があります。九州制覇は現在の沖尚の甲子園センバツ制覇の布石となる一つの大きな関門でした。


琉球新報 昭和52年(1977)11月16日朝刊
深紅の優勝旗に”万歳“




空港は歓迎陣の波

九州制覇の豊見城ナイン
 夢果たし帰る




帰ってからが勝負です。チヤホヤされていつまでも有頂天になっていると、あとでとんでもないことになりますよ。


ところで
昔の高校生はテレビや新聞のインタビューに答えるのはうまくありませんでした。緊張して日本語でうまく話せなかったのです。その点、現在の沖縄尚学の選手や最近の高校生の話し方は堂々としてとても上手ですね。
  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 15:17Comments(6)九州大会優勝

2008年04月05日

夏に向けた準備が全国一遅い

夏に向けた準備が全国一遅い

沖縄尚学、優勝おめでとうございます。

4/5の沖縄タイムスで赤嶺先輩のコメントがありました。
赤嶺賢勇氏(豊見城高校のエースとして1975年春のセンバツで県勢初の8強入り)

【八回に逆転した準決勝は、今までの沖縄のチームとはひと味違う粘りだった。強かった。決勝までに残ったことは夏に向けての準備が全国一遅いということ。重圧もあると思うが、そんな謙虚な気持ちを忘れずにさらに頑張ってほしい】


〜たしかに今県勢は浦添商、中部商、首里、石川、興南を筆頭に、八重商工、浦添工、豊見城、本部、名護…どこも強い。連日、守りを鍛えて、東浜投手対策の打撃練習をしていると思えば侮れない。さすが先輩、経験から来るピリッとしたコメントです。夏の戦いはすでに始まっています。

ところで今センバツ決勝戦のスコア予想を私は6:0で沖尚の勝利としました。
  (4/3のコメント参照)

4回までズバリ的中!

5回の伊古くんのランニングホームランはおまけで私的には想定外です。
相手の中継も乱れてましたし…。 結果9:0  中当たりでした!

  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 20:36Comments(5)沖尚の躍進08年

2008年04月03日

沖尚、決勝進出

沖尚、決勝進出おめでとう!

嶺井君よく打った!東浜君ナイスピッチング!

優勝するには2番手投手の奮起が必要!
剛球・上原君、南部魂にも期待!

9年前の4月4日は金城孝夫監督率いる
比嘉、照屋の両投手で沖尚が優勝した日 
あすはどうか!!


  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 16:11Comments(4)沖尚の躍進08年

2008年04月02日

あの一球、分かれ道に

沖縄尚学、ナイスゲームでした!
強豪天理に勝ちました!

おめでとうございます。明日もたのしみです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


さて、31年前の記事を掲載します。
これは初の九州大会制覇したあとの栽先生のインタビューです。

栽先生の野球に対する姿勢、さまざまな教えは、豊見城高校野球部OBの金城監督(沖尚がセンバツ初優勝したときの監督)を経由してその教え子の比嘉公哉監督〜今の選手たちにしっかりと受け継がれていると思います。


昭和52年(1977年)11月16日 水曜日 琉球新報


この人と30分
九州制覇した豊見城高校野球部監督
栽 弘 義

ー九州制覇おめでとうございます。どうですか飛行機のタラップを降りてきたときの気持ちは
栽監督●うれしさと不安がごちゃまぜになった妙な気分ですね。初めての九州制覇ですからね。それはもううれしいにはちがいない。だけど、これでまた甲子園にみなさんの期待が大きくなったわけですからね。それにこたえられるかどうか。責任が重くなっだけに、それだけ不安も。

ー優勝の原動力は
栽監督●攻守のバランスがとれていたということでしょうね。それに軸になる選手がそれだけの働きをしてくれた。投手がまだ仕上がっていないとう不安もあるが、よくがんばってくれた。

ーそれだけ打力の勝利ですね。
栽監督●うん、まあよく打ってくれました。昨年にくらべて柄は小さくなったがパワーはは上ですよ。パワートレーニング、ウエートトレーニングを続けてきた成果でしょう。石嶺の小浜戦でのホームランは場外に130mは飛んでいる。神里のは低いライナーでね。

ー守備も再三ダブルプレーを演じピンチを切り抜けましたね。
栽監督●この大会で三塁の宮城、遊撃の新垣は自信をつけたでしょう。それに内野では二塁の比嘉康がキーですね。バッティングは湿りがちだったが、その守備の広さ、連係プレーの確かさは一試合でヒット4本の価値があった。

ーさて、対小倉戦で1:1で迎えたあの9回裏、小倉の攻撃1死満塁、1打サヨナラ負けという絶対のピンチに立たされたときの気持ちは。
栽監督●絶対絶命のピンチでしたね。しかし、あのシーンを思い出してください。昨年夏の大会県予選の決勝戦でもまったく同じシーンがありましたよ。このピンチを迎えた打者は小倉も那覇も上位。スクイズでなく絶対勝負してくると読んでましたよ。そうなったら活路も開けてくると、あの時点で宮城にピッチドアウトする余裕はありません。スクイズでこられたら負けでしたね。

ーそして続く二死満塁カウント2−3のときの心境は。
栽監督●あの一球が分かれ道で、優勝を呼び込んだといえるでしょう。宮城を替える気持ちはまったくなかった。そのときの勝負球が変化球でね。宮城正独特の落ちる球、ストンと胸がすくように落ちた。

ー九州の高校野球のレベルをどう見ました。
栽監督●レベルは低くないと思う。試合になったらそれは新人らしさが残ってましたがね。これから春、夏に鍛えがいのある選手がゴロゴロという感じです。それだけセンバツ、夏はきびしくなると思いますよ。

ーさてセンバツですね。九州を制覇したことで当然マークされると思いますが、甲子園に向けてチームの課題は。
栽監督●まず体力をつけること、パワーアップでしょうね。九州大会ではパワーでも他校を上回ったが、甲子園ではまだまだ通用しない。それとプレーの確かさを増すことになるでしょう。たとえば神里は制球力はいいといってもスポットコントロールにはまだ不安が残る。連携プレーにも、走塁にもやるべき課題はまだ山ほどある。
 九州を制覇したからといって選手に自信をつけさせちゃいかんと思っているんですよ。しごいてしごいて、あしたからの練習は選手が持ったかもしれない自信をなくすことから始めなければならない。ひとつひとつ、これから積み上げていく気持ちです。

……………………………………………
思い出にのこるあの日あの一球でした。  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 16:10Comments(4)九州大会優勝

2008年03月30日

沖縄はいまや〜後半

沖縄はいまや沖縄ではない/後半

1978年春センバツ前のスポーツ記者・八代浩氏のコラム記事です。
『サンデー毎日臨時増刊号(昭和53年3月発行)』より引用させていただいてます。
  前回記事に続いて〜後半

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

四年前の第47回大会、甲子園に初登場した豊見城は、沖縄勢としてはセンバツ初のベスト8に進出、準々決勝でも東の横綱・東海大相模に九分九厘勝っていた。しかし九回裏、二死から逆転負けを喫し、甲子園の手痛い教訓をいやというほど味あわされた。「あと一歩でした。残念ですー…」。目を赤くし、無念さを隠そうとしない栽監督の姿が印象に残る。

それから夏は二度、センバツは連続四度目。練習が厳しい。「いまの一球で相模に負けたんだぞ」「そのプレーが星稜戦の敗因だ」〜容赦ない叱声といっしょに、四年間の”教訓“がチームに刻み込まれていく。

平均身長169cm。群馬の前橋とともに出場校中最小である。だが小粒でも往年に名横綱、栃錦や若乃花のように、持て余すほどの力感のあるチームがある。昨年の箕島、四十七回大会の高知…。四つに組んだときの豊見城のしたたかな地力については九州勢が揃って証言している。「大きなチームは昨年でたくさんです」と栽監督。「大勝もする代わりに、一つ調子を外されると、それっきりだ。その点、ことしのチームはいろんな状況に対応できる。自分が手がけたチームではまず最強でしょう」

薩摩によく勝った

そこで優勝への野心を診断してみた。「ことしの豊見城ではまだ戦力不足です。だが、沖縄、興南、コザ…本土コンプレックスのない好チームと指導者はどんどん増えている。うちがやれなくても、沖縄が甲子園で優勝するのは時間の問題ですよ」。意地っ張りの栽監督には、良いにつけ悪いにつけ、沖縄を特別視扱いすることを拒否する姿勢がある。

しかし、こんな話もした。五十年秋の九州大会で鹿児島実を破ったとき、老人たちが「薩摩によく勝ってくれた」と涙を流して喜んだ。「薩摩藩の圧政に苦しんだ島民の感情が、まだ生きていたんですねえ。歴史にじかに触れた気分でした」。そして昨秋の大会でも鹿児島商を下し「これで鹿児島勢に五連勝です」〜栽監督も宜野座部長もほとんど会心とでもいいたい笑顔でいうのだ。

サツマを破り、九州全域を切り従え、沖縄の夢をのせて豊見城がやってくる。
 (八代 浩)

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

2008年(平成20年)
首里高校が沖縄勢として初めて甲子園に登場して50年の節目
栽先生率いる豊見城が築き上げた30年前の礎(いしずえ)
綿々と受けつがれる沖縄高校野球界の歴史と伝統
………
本日、沖縄尚学の健闘を祈ります。  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 09:20Comments(1)サンデー毎日

2008年03月29日

沖縄はいまや沖縄ではない



1978年春センバツ前に発行された『サンデー毎日』のスポーツ記者・八代浩氏のコラムです。

明日の沖縄尚学の試合の前に自らもう一度読んで確認したいよ思ってアップします。たいへん感慨深い八代さんのコラム記事です。

『サンデー毎日臨時増刊号(昭和53年3月発行)』より引用させていただきます。




沖縄はいまや沖縄ではない


優勝ねらう戦力
栽弘義監督の叱声…飛ぶ

豊見城がやってくるーー。かつてあのセンバツの荒々しさの風雪に、南国の叙情的な色あいを添えていたあのか弱い沖縄は、もう豊見城のどこを探してもない。四年前、闘将・栽弘義に率いられて那覇の近郊に起こった豊見城は、沖縄を従え、年ごとにチ力をつけ、黒潮に乗って昨秋、九州全域をも制圧して、三月の甲子園へと東上してくいるのだ。各地の強豪たちも、いまは強豪を迎えるにふさわしい敬意と闘志をもって待っている。


昨年の九州大会で小倉の大石投手は「あのコースを打たれたのははじめて。内角のシュートには自信を持っていたのにーー」

この試合を除くとあとは決勝の鹿児島商戦まで一方的な試合を続けた。小倉の津江監督は「とにかく九州では一牧、力が違っていた。あれで投手力さえ万全なら甲子園でも優勝候補ですよ」。その投手力について栽監督自身は「赤嶺(巨人)に及ばないにしても、昨年評判のよかった下地より、いまの時点では神里の方がいですよ」。日焼けした顔をにこりと崩していうのである。


栽弘義監督、36歳。今が盛りだ。糸満高校から中京大学へ進んで体育学を学び、野球部にも一年在籍した。最初から、自分の野球人生を、選手としてよりは沖縄で高校野球の指導者にーーという確固たる方針を持っていた。一年間、中京球界のリーダーである中京大・滝正男監督のすべてを、目を皿のようにして学んだ。いってみれば豊見城野球のルーツは、中京大学にある。沖縄ではまず無名の小禄高校をたちまち有力校の一つに育てあげ、昭和47年、学校創立7年目の新興の意気あふれた豊見城に移り、3年で同校を沖縄球界の推進校に仕上げた。
(後半へ続く)
  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 14:41Comments(0)サンデー毎日

2008年03月28日

九州大会優勝

沖縄尚学、初戦突破 おめでとうございます。

ピンチに動ぜず、最後まで守り抜く醍醐味を見させてもらいました。
9年前のセンバツ優勝時を彷彿とさせる試合の流れです。
なお、当時沖縄尚学を率いた豊見城高校OB金城孝夫監督(現佐世保日大)は私・宮城の又従兄弟です。


一方、
30年前の1978年第50回選抜大会は、豊見城は優勝候補と期待されながらも初戦で群馬の桐生高校と対戦。結局、大会左腕№1小暮投手に抑え込まれ1:3で敗れてしまいました。敗因はセンターの再三のファインプレーに阻まれました。石嶺を研究した外野人のフェンスぎりぎりに守りホームラン以外は取るというディフェンスに尽きると思います。野球に絶対はありません。勝負の世界の厳しさを学びました。すぐ夏へ向けて切り替えて厳しい練習に挑むことになりました。

………………………………………………………………

その前年秋の九州大会で豊見城高校は、沖縄県勢で初優勝を成し遂げました。
今回は当時を振り返ってみます。

昭和50年(1977)11月10日 沖縄タイムス記事より

九州制覇、こんどこそ!
好調の4割打線
闘志秘め、きょう出発 豊見城


長崎で行われる第61回九州高校野球大会に出場、九州制覇に七度目の挑戦をする豊見城高校野球部は新人大会終了後も休むことなく、新たな目標に向かって調整を続けて来た。投打とも申し分なく、守りも含め万全の体制だ。初戦の相手も長崎・小浜高に決まって、各自胸に闘志をかき立てる。豊見城の戦力は旧チームに劣らず、破壊力はむしろ上回り優勝候補の最右翼にあげられている。「まず2勝。センバツへの切符を手にする」(栽監督)と謙そん気味に言うが内心は九州よりも甲子園”日本一“に焦点をしぼっている。
 (中略)
打力に比べ力が劣ると言われた投手陣の神里、宮城正は、1日300球の投げ込みで球威が新人大会より増した。神里は171cm、66kg、宮城正が160cm、60kg。両投手とも速球を主体する右の本格派。奪三振こそ五試合で14と少ないが、カーブ、シュートを交ぜて打ちとうピッチングは防御率1・8と立派な内容。大会は神里〜宮城正の継投策になる。宮城正は五試合10イニングを自責点ナシ、立派に役目を果たしている。
 (後略) 

大会結果は以下の通り 優勝!!でした!

一回戦 豊見城 9:0(長 崎・3)小 浜 
二回戦 豊見城 5:2(北福岡)小 倉
準決勝 豊見城 7:2(長 崎・1)佐世保工
決 勝 豊見城 4:0(鹿児島)鹿児島商     
               
      
       球場:長崎市営球場、諫早市営球場


※これは快挙です。詳細記事については次回に掲載します。  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 12:51Comments(2)九州大会優勝

2008年03月26日

サンデー毎日




きょうは沖縄尚学の初戦ですね。いい試合を期待しています。


30年前のセンバツ大会の資料をひもとかせていただきます。マンガ「ドカベン」に出ていた明訓高校の小さな大投手・里中くんが表紙を飾っています。なつかしいです!ワクワクしてきました。

143ページを開けます。





※文字もなんとか判読できます〜☆

…………………………………………………………………………………………
いつか線をひいてた枠内↓
【リリーフの宮城正は11試合22イニングに出て失点がわずか1。信頼できる逃げ切りの武器だ。身長160cmと小柄だがほとんど真上から投げる。それほどにも見えない速球が打者の手元で意外なほど力強いノビを見せる。打撃練習では打力自慢の選手たちが、ときには神里以上に打ちあぐねている。
入学したさい、小柄な体を見て監督が何度か投手を断念させようとしたが承知せず、黙々とハードトレーニングに取り組み、リリーフ切り札の位置をつかんだ。この気性とマウンド度胸が最大の武器ともいえる。】

※栽先生の言葉は今でも耳に残っています。


…………………………………………………………………………………………
(監督の抱負)
【ことしのチームは自分が手がけたチームでは最強と自負している。それだけに十分な調整をして甲子園へ行きたい。取りあえず一戦はどうしても勝ちたい。初戦はみな一線だから。それ以後の目標というときりがない。ただ、現実に優勝をねらう」と言い切れる力はまだない。過去最高のベスト8のカベを破れればと思う。】


あれから30年…
…………………………………………………………………………
2008年3月26日 第80回選抜高校野球大会 5日目第3試合
沖縄尚学初戦、相手は東北大会準優勝の聖光学院(福島)
期待してます 初戦突破!
  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 05:47Comments(3)サンデー毎日

2008年03月24日

50回センバツ雑誌

1978年 第50回選抜高校野球
雑誌記事が出てきました〜!


大会屈指の石嶺だけでなく、
総合力で”台風の眼“


成長著しい神里のピッチング
豊見城高校はいまや全国のファンにとって”アイドル校“となったといってもいいだろう。
一昨年の赤嶺、昨年の下地のすばらしい活躍、そしてそれぞれ巨人、広島に投手として入団したというはなやかさもあるだろうが、三年連続で甲子園に顔を出し、そのすがすがしいプレーと力強さが、人々をひきつけたというのが本当だろう。
学校創立と同時にスタートした野球部はまだ十二歳の若さだ。この若い野球部が昨年(1977年)秋の九州大会ではついに初めての優勝旗をもぎとった。小倉、佐世保、鹿児島商と手強い相手をなんなくひねりつぶした。

〜(中略)〜

コピーには写ってませんが、ページ右端の柱部分にはこう書かれてあります。
●沖縄はいま豊見城の天下。昭和50年春、51年春夏、52年春夏、53年春と五連続出場の六回目だ。47年に就任した栽弘義監督の手腕が大きい。中京大学時代から監督勉強に励んだのは有名だ。

中段に線を引いたところには…二番手ピッチャーは宮城正がいる。1メートル60と現在の高校野球では小柄の代表みたいだが、その球速はすばらしい。パワートレーニングで徹底的に積みかさね、小さいながらも体づくりに成功し、バネのある体をフルに生かしている。九州大会まで防御率0.4で、神里よりすぐれている。投手陣は昨年の選抜より安定している。


と書かれてありました。

左のページ


                     写真右、セットポジションが私です

記事左端(監督の一言)にはこう書かれています。
栽監督
「私たちは遠い離れた島にいるので、他のチームのように強いチームとの試合でもまれることができない。チーム強化は強い相手とゲームをすることが大切なのです。他チームの情報も取りにくい。ですから、いつも他チームよりもきつく練習し、実力でかならず一枚上になることをめざしています。そのために選手には、目的をはっきりさせて切磋琢磨するように教えています。甲子園では九州大会優勝の誇りをもって当たり、クリーンアップの前にランナーを出すことを心がけたいと思っています。選手があがる心配ですか? あがりたい奴はあがってやれと言っています」

    〜いまでも生きる”天の声“です〜

  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 07:04Comments(1)センバツ出場!

2008年03月21日

センバツ出場!

豊見城に熱い目 全参加校

甲子園で公式練習

昭和53年(1978)3月24日 金曜日 沖縄タイムス朝刊より




【甲子園】豊見城の甲子園公式練習は二十三日午前九時から約一時間行われた。フリーバッティング、シートノック、そしてエース神里が五十球、控えの宮城が百球石嶺を相手に投げ込んだ。神里は七分の力投。シュート、カーブ、ストレートの三球種に分け、ていねいに投げた。甲子園のマウンドは昨年三月三十日、酒田東との対戦で2イニング、そしてベスト4をかけた和歌山箕島高(第四十九回選抜優勝校)戦で1イニング登板した。酒田東戦では10−0と圧勝、今大会も「がんばります」と言い切った。石嶺捕手の甲子園は二年連続三回。パワーのある打力は本土マスコミの注目を集め、練習後には報道陣の取材攻めにあった。
 野球野球
 九州の覇者・豊見城の攻守は参加校の注目の的となっている。この日、甲子園球場のバックネット裏には朝早くから百人近い関係者がつめかけ、選手一人一人の動きを熱心に見ていた。豊見城名物の”紙ボール“も関係者の関心を呼んだ。一回三千個、年四回で一万三千個から一万五千個がつくられる。紙ボールの妙味はケガがなく、雨天の日でも教室や狭い場所で練習が容易であるーーという。新聞紙六ページで一個の紙ボール、六十四人の部員が一人当たり五十個作り上げる。部の財政難から編み出したもので、選抜出場四年の記録と歩みをともにしている。
 野球野球
 四年連続”センバツ“出場の記録をもつ豊見城は、甲子園球場でも歓迎してくれた。二、三日来のぐつついた天気も公式練習の二十三日はカラリと晴れ、春の日差しの中を選手たちは思い切りひのき舞台に向け特訓した。
 野球野球
 豊見城は午後から市立尼崎高校グラウンドに移し、同行チームとの合同練習など午後六時すぎまで行った。






1978年春
第50回選抜高校野球大会
出場記念

ちょうど30年前の私です。






写左側   譜久山 長儀
写真後方 南陽工業→広島カープで活躍した 津田投手
写真右側 ファンの人です

当時の津田投手は、残像が残る(糸を引く玉)すごいスピードボールでした。
スピードガンで計測したら150㌔は出ていたはずです。
残念ながら、若くしてお亡くなりになりました。(お悔やみ申し上げます。)  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 15:22Comments(19)センバツ出場!

2008年03月19日

栄光への球音3

いまから30年前の同じ時期、我々豊見城高校野球部(11期中心)はセンバツ甲子園に出ました。ここでは30年前の新聞記事や雑誌をひもときながら当時を振り返ってみたい。同時に今春センバツに出場する沖縄尚学へもエールを送りたい。



以下「沖縄タイムス」記事全文引用
1978年(昭和53)3月19日朝刊
栄光への球音
”センバツ豊見城を追う“(3)


燃える投手陣
赤嶺、下地に追いつく

 破壊力の大きい打線に比べ、不安材料としていつも引き合いに出されるのが投手力だ。赤嶺(巨人)、下地(広島)と人気のある好投手が連続して出た後だけに、どうしても比較される。「先輩が良すぎたから…」と割り切っては見たものの”弱い投手陣“という言葉は、神里、宮城正の両投手を「甲子園で好投して見かえす。かえって意欲もわく」とふるい立たせる/「全国トップ級の打線に背負われている」「投手力のために…」と言われたくない。負けん気の返事がかえる。それが早朝のタイヤ引き、練習後には家路を走って帰る行動に現れる。

 では、果たして投手力はどうか。この時点の数字を下地と比べてみた。
(表参照)


【下地】  23    157     92   109    60   24   23   1.31
     試合数 投球回数 被安打 奪三振 与四死球 失点 自責点 防御率
【神里】  15     92      59    20     47   20   16   1.563
【宮城】  11     22      10    18      7    1     1   0.409


 下地の投球回数に比べ神里、宮城正は極端に少ない。それは、試合のほとんどを、二人で投げて来たからだ。したがって二人の数字を加えて比較すると、防御率で下地1・31、神里・宮城正は1・34点で、そう変わりはない。奪三振ははるかに下地が多いが「スピードは、現時点で神里の方が赤嶺、下地を上回る」(栽監督)球速がある。神里も「スピードでは劣らないと自信をもっています。あとは、先輩たちの持っている駆け引き、制球力を見習いたい」と赤嶺、下地に追いつき、追い越せと連日の投げ込み。神里はクリーンアップの一角だが「無安打でもいいから、ピッチングは満足に行きたい」とエースらしく「投」に比重を置く。
 一方、宮城正は「短いイニングなら絶対に自信がある」と公式戦でも完ぺきなリリーフを果たしている。神里の練習を見て、自らの練習量を倍にする負けず嫌い。「点差が開けば登板の機会もある」と手ぐすねを引く。「神里が故障すれば投げられるね」と意地悪く聞くと、とんでもないと言った顔つきで「故障してほしくないですよ。ベストの状態で挑まなくては」と”好敵手“のコンディションを気遣う。


写真説明:「あとはまかせて」と宮城(左)が言えば、「まだまだ」と神里(右)たがいに刺激しあってしのぎをけずる
  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 06:52Comments(9)栄光への球音

2008年03月17日

栄光への球音2

いまから30年前の同じ時期、我々豊見城高校野球部11期中心は九州・沖縄地区代表として、第50回春のセンバツ高校野球甲子園大会に出場した。ここでは30年前の新聞記事や雑誌をひもときながら当時を振り返ってみたい。同時に今春センバツに出場する沖縄尚学へもエールを送りたい。野球沖縄野球


月刊野球党3月号・昭和53年3月15日 (株)日本スポーツ出版社発行
豊見城高校・石嶺和彦捕手
「いしみね〜かっこいい!」

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県内の新聞記事が見つかった。
「栄光への球音」(1)がみつからないので(2)と(3)を掲載する。
どなたか(1)をお持ちの方はオーナーメールなどでお知らせください。



以下「沖縄タイムス」記事全文引用
1978年(昭和53)3月18日朝刊
栄光への球音
”センバツ豊見城を追う“(2)


チーム力に幅
積極、個性的なナイン


「練習で泣いて試合(甲子園)で笑え」という言葉は豊見城にはあてはまらない。全国チームが、グラウンドに血ヘドを吐き、悲壮感漂う厳しい練習を行って甲子園にやっ来る。厳しさの点では豊見城も変わりないが、すべてが選手自ら求めた厳しさ、好きな道だからこそ、激しい練習に耐えていけるのだ。
 フイールディングの猛ノックを受けている最中、選手がミスった。「コラ!何やってるんだ。ノーパー」神山コーチに怒鳴られる。失敗した選手に軽くコツンとやると「強くいけ!強くー」と周囲の選手が逆に、コーチをどやす。厳しい練習中にこんなヤジが飛ぶので思わず吹き出してしまう。サーキットの時も場違いなかけ声「ハーイヤサッサ」琉球民謡のはやしが出る。選手たちは注意は注意として反省するが、万事がこんな調子なので明るい雰囲気と、皆が明朗快活である。
 「前のチームは性格がおとなしいチームだったが、今度のチームは体の小さい割に個性的な連中でね、ゲームにもそれが出てくるんだ。面白いチームになるよ」栽監督は新チームがなりたてのころによく言っていた。選手たちも楽しい野球を心得ていて、上下級生なく、失敗すればヤジり、いいプレーには「○○ナイスプレー」「いいぞ、いいぞー」グラウンドのあちこちから元気な声が飛び交う。
 「もし失敗したら…」と脳裏をかすめ、消極的になったのが前チーム。現チームは失敗よりもほめられる野球をやるようで、攻撃も積極的に「エンドラン、バント、盗塁と何でも出来る幅がある」(栽)チームだ。四年連続出場を果たした”現代っ子チーム “練習後「すぐ脱いで力こぶを見せたがる宮城正選手」とチーム紹介記事の一文を引用して、
はだかの宮城正選手をからかい合う。

写真説明:部室で「どうだこの筋肉」と自慢。無邪気で明るいナイン

「ただし〜かっこわりい!」

    …聞こえてきそう…  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 11:45Comments(7)栄光への球音

2008年03月16日

「ありあり〜について その5

沖縄言葉の「ありあり〜」表現についてを考える・その5

「ありあり〜」とは、(はらはらドキドキ 慌てふためく 先入観  こんなはずでは どんでん返し 七不思議  波乱万丈)などと意味が広い。声の出し方や抑揚によっていろんな意味を添えることが出来る言葉である。
「ありあり〜」最終回は就職休みのとき…



10)ウィンナーコーヒーの話し:とんでもない勘違い

高校の就職休みの時、平山 司と大阪に遊びに行った。その時泊まったホテルが梅田の通称「丸ビル」と呼ばれる建物で屋上に電光掲示板があった。そこで友達と会う約束をしていた。

自分達2人が出かけている間にその友達が訪ねて来て、フロントにメッセージを残した。フロントの人が「日本語でよろしいですか」と聞いたと言う。自分達としては、内地人(ないちゃー)に成りすましていたのにウチナーンチュどころかカンボジア人ぐらいに間違えられていたとは・・・

平山 司は、兄貴に合うために別行動になっていた。時間つぶしのために自分一人で喫茶店に入った

自分はウィンナーコーヒーをオーダーした。見た瞬間、コーヒーフロートと同じイメージ で考えていた。しかし、ストローがなく、疑問に思った。田舎者(イナカー)の自分は普通わからない時は、平山 司よりアドバイスを受けていた。ちょっと考え、勇気を出し、「おねえさん、ストローください」。ウエイトレスは不思議そうな顔でストローを持ってきた。

ホットコーヒーなのに、熱いことには全く気付いていなかった。ストローで一気に吸い込み「あぢぃー」 我慢できない。口から熱いコーヒーが吹き出し真っ白なセーターを一気に染めた。(マンシングウエアー)熱い、恥ずかしい、逃げたい。
壕があったら入りたい。勘違いとは、本当に恐ろしい事だ。疑問に思ったら、まずは確認をし、知ったか振りをしないことが賢明だと理解した。


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次回〜センバツ高校野球の思い出…
  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 19:52Comments(6)「ありあり〜」について

2008年03月14日

「ありあり〜」について・その4

沖縄言葉の「ありあり〜」表現についてを考える・その4

「ありあり〜」とは、(はらはらドキドキ 慌てふためく 先入観  こんなはずでは どんでん返し 七不思議  波乱万丈)などと意味が広い。声の出し方や抑揚によっていろんな意味を添えることが出来る言葉である。
ガキ大将の頃から、今の自分のエピソードと不思議な嘘のような話がある。


(8) 火薬の話し:こんなはずでは

実験で学び、研究を重ね、開発をする(製品作りの具体例)。
不発弾からは四角い火薬、薬きょうからは鉛筆の芯みたいな火薬が取れる。それを並べて火をつけると、火が一瞬に走り、面白い。イメージが膨らみ、缶コーラ(空缶)四角い火薬を目一杯詰め込み、線香花火で導火線を作った。

火の噴水みたいなイメージを描いて仲間5〜6名で見ていた。念のために10メートルくらい離れて見ていた。線香花火が、火薬に引火した瞬間、大爆発!大きな爆音と煙りで、何が起こったかわからない。空缶は跡形もなくコッパ微塵。けが人が1人もいなくて幸いだった。初めての爆発の体験である。
隣近所の大人が集まり出し、ぬーなとーが(どうなってるの?)。僕が仕でかしたと分かると、ぬーかんげーとーが(何考えているの)と言われた。今でもよく言われている。
実験からの学び、体験野外学習である。…しかし、よい子は真似をしないほうがいい。



(9) 火薬の特徴を掴む:コーディネート

火薬の特徴を掴んだ自分は、パチンコ玉にぴったしの鉄製のパイプを見つけ、長さ120cm位(銃身とも言う)隣のおじさん(現在仲程アルミ)に切ってもらい。ネジ切りをしてもらい、底を鉄製の蓋でネジ止めをし(構造力学的視点から)、火薬と導火線のベストポジションにドリルで穴を空けた。

本気で火縄銃の制作に取り掛かったのだ。後は、火薬の爆発力だけの問題で、花火(ダイナマイト、爆竹)のデータを集めるだけであった。「研究」の結果、余分な紙を外し5個分を糸で束ね、テストをした。至近距離からドラム缶にめがけ、
バン!
見事に貫通した。火縄銃の出来上がり。さすがに友達も感心していた。
だが夏休みの工作にはとても出せなかった。(あぶない)捕まるおそれ? 
銃刀法違反?〜35年前…時効ということでお願いします眠っzzz


当シリーズは、あと1回あります。
やがてセンバツ…です。  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 13:14Comments(4)「ありあり〜」について

2008年03月13日

「ありあり〜」について・その3

沖縄言葉の「ありあり〜」表現についてを考える・その3

「ありあり〜」とは、(はらはらドキドキ 慌てふためく 先入観  こんなはずでは どんでん返し 七不思議  波乱万丈)などと意味が広い。声の出し方や抑揚によっていろんな意味を添えることが出来る言葉である。
ガキ大将の頃から、今の自分のエピソードと不思議な嘘のような話がある。

いよいよ佳境に入る

(5) サルの話:モンキーつながり…不意を付かれた

大里南小学校にサルの太郎と花子がいた。みんながいじめて花子が死んだ。その仕打ちは、爆竹、水攻め、竹でつつく行為であった(僕はイジメていないよ)。何も考えずに子どもは、しばしば残虐なことをする。

ある日、学校で当時流行のモンキー自転車(35年前)乗っていた。バランスを失いサル小屋へ手を付いた。その瞬間、中指をガブリ! 太郎は、両手両足を金網に踏ん張りパワー全開。痛い、寒気がするほど痛い。(ブチクンなりそう)
引っ張り返せる訳がない。自然に任せ、「神様助けてぇー。」初めて、神頼みをした。

やっと満足したのか太郎は顎の力を緩めた。太郎に対し心からサンキューと思った。
自分に対しての天罰であった。



(6) 万座毛の話:こんなはずでは…先入観

小学校2、3年生の頃、門中(むんちゅー・一族)で楽しいピクニック。
ワーイ!初めて行った恩納村万座毛。広々として気持ちいい。先が見えない所を覗くとその先も芝生が広がっていた。さらに、駆けずり回る。飛んだり、跳ねたり、全部がそういう所(先入観)だと勘違いし、断崖絶壁があるとは予想も出来ない(初めて来たのに)。

さぁ大変!断崖へ向かってダッシュ!それを見ていた門中の「ありありー」が始まった。
「止まれー!」の叫び声に身の危険を感じた。スライディングセーフ。人生で一番のナイス・スライディングであった。そのおかげで、楽しいはずのピクニックが台無し、たまし〜ぬがち、まぶやーうとぅち(魂落とす)。その言葉の意味が子供をもって初めて感じる。危険な行為はやめよう。



(7) 不発弾の話:先入観…今では恐ろしい、一歩間違えば…

ガキ大将の自分は、仲間10名を引き連れて川にスッポンをとりに行った。
そこで、100キロくらいの不発弾を見つけ、「いい物みーつけたー!」と思い(火薬がいっぱい詰まっている、ラッキー)何も迷わず、引き上げる事を考えた。
犬の鎖や角材、ロープ、子供の英知を集結させ、作戦開始。3メートル以上引き上げるには、大変な作業であった。「よーし、上げろ。」みんな必死に引き上げる。
しかし、ゴトゴト、ドボン!なかなかうまく行かない、何回も繰り返し、日が暮れ、諦めがついた。もし、朝一番に見つけていたら、とんでもない事になっていたかも…。
無事で良かった、今考えると恐ろしい。


  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 04:43Comments(4)「ありあり〜」について

2008年03月11日

「ありあり〜」について・その2

沖縄言葉の「ありあり〜」表現についてを考える・その2

「ありあり〜」とは、(はらはらドキドキ 慌てふためく 先入観  こんなはずでは どんでん返し 七不思議  波乱万丈)などと意味が広い。声の出し方や抑揚によっていろんな意味を添えることが出来る言葉である。
ガキ大将の頃から、今の自分のエピソードと不思議な嘘のような話がある。
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(3)馬の話:インスピレーション

小学校の頃、いつも遊んでいた所に放し飼いのデカイ馬がいた。あるとき目が合った(まさかと思った)。
インスピレーションで殺気を感じた。馬がこっちに向かってダッシュし始める。
「でぇーじ、なとーん」。。。。。。。^^;^^;がーん

瞬時に真っ直ぐに逃げ切れるわけがないと感じて
横道にそれてブロック塀によじ登り
やっとセーフティーゾーンへ(安心)。

しかし、馬はなかなか諦めなてくれなくて、じっと見合っていた。
しばらくしてやっと馬が諦めた。もし、噛まれたり襲われたりしていたらどうなっていたのだろう。今でも答えがわからない。
誰か襲われた人がいたら教えてほしい。




(4)犬の話2:とっさの判断

小学5年の頃、近所でも有名な噛みつく犬(方言ではくぅーやーいんぐわぁー)がいた。
ある日、その犬に追っかけられて全力で逃げた。
しかし、前は行き止まり。水泳選手のように
ブロック塀へキックUターンした。

犬はその行動にビックリ仰天。慌てた犬が僕とまったく違う立場になってしっぽを丸めて逃げていった(キャイーン!)僕ボクサー僕ボクサー僕ボクサー

よく思い出してみると、四つ上のにぃーにぃーが手の届くブロック塀によじ登ろうとして、お尻を犬に噛まれ、何度も引きずり降ろされる姿を見たことがある。とても痛そうでかわいそうと思った。なすすべがない状態とはこのことを言うのだろう。

でもちゃー笑い!(爆笑)

人間の本心ってそんなもの? 悪いやつだ。もし、自分が身長も高くてブロック塀によじ登ろうとしていたら、同じ目にあっていたと思うと恐ろしい。手が届かなくて良かった。痛い思いをするのは自分じゃなくて良かった。
  


Posted by 豊見城高校野球部11期 at 20:14Comments(2)「ありあり〜」について