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2008年02月29日
自己紹介です
自己紹介です
ハンドルネーム:豊見城高校野球部11期・おーざとのたーしー
別ブログ:「島らっきょうだより」→島らっきょう
本名:宮城 正(みやぎ・ただし)
昭和36年(1961年)2月9日生
住所 沖縄県南城市大里
家族 妻・長女・次女・長男の5人家族
学 歴
昭和51年(1976年) 3月 大里村立大里中学校卒業
昭和54年(1979年) 3月 沖縄県立豊見城高等学校卒業
昭和54年(1979年) 4月 九州共立大学経済学部経済学科入学
昭和57年(1982年)11月 九州共立大学経済学部経済学科中退
職 歴
http://www.luckey.jp/ から入って
「プロフィール」と併せてご参照ください。
ここでは、
私の半生を9イニングに分けて
一気に書き上げます。
(1)小・中学時代
野球は小学校の遊びの中から興味を持ち、最初は何も分からずに興じていた。
その後、スポーツを通して様々な出会い、仕事(ビジネス)を通しての出会い、地元の大里に帰ってからの商工会青年部を通しての出会いに恵まれる。
(大里発、福岡・神奈川経由大里行き…)の私の人生である。
今年(2008年)で47歳になった。今後に向けてこれから一日一生の気持ちで物事に取り組んでいきたい。
中学校の頃、人気バンドのチューリップや歌手の河島英五らのコンサートを生で観た。本物の歌やライブの臨場感を感じたことがある。また陸上のトップアスリート(瑞慶覧さん)の指導も受けており、一流の凄さを体感。野球では江川卓(作新学院〜巨人)を若夏国体で見たが、ボールの速さにド肝を抜かされたことがある。何事も実体験の重要性を感じた。
音楽・スポーツだけでなくビジネスも同じ。
(2)高校時代
沖縄海洋博覧会の年、昭和50年(1975年)に甲子園で活躍した赤嶺賢勇投手に憧れて、翌51年に豊見城高校へ進学した。
豊見城高校野球部黄金時代(栽監督スパルタ野球)の真っただ中に身を投じる。
同期の石嶺和彦(現中日ドラゴンズ打撃コーチ)を中心に、リリーフ投手して活躍、ピンチを凌ぎ沖縄県勢として九州大会初優勝の立役者となった。
春の選抜大会では優勝候補の呼び声が高かったが、1回戦で惜しくも敗退。しかし我々11期は3年連続となる春夏連続甲子園出場を果たし、さらに3年連続ベスト8という偉業を成し遂げた。11期の戦績は、1977年秋の九州大会優勝、県内では無敵、甲子園春夏2勝2敗。
(参考までに)↓↓↓
http://www.mm24mm.com/tomishiro.html(豊見城高校野球部甲子園での戦績)
沖縄の高校球界で初の九州大会制覇。その時にリリーフとして優勝に貢献できた。自分が奇跡(まぐれ)を起こしてしまい運を使い果たしたのかと、後で思い悩むこともあった。
当時は大里中学出身者の甲子園出場ということで、地元からも多くの寄付が集まり人の善意を有り難く感じていた。
高校卒業後は、大学に進学。 スポーツ推薦で九州共立大学に入学した。
(3)大学時代
将来は教員か野球関係の職に就きたいと漠然と考えていたが目標がはっきりせず、ぼんやりとした不安の中で学生生活を過ごしていた。
ある日、当時の前監督に(息抜きのつもりだったのだろう)競艇場に連れ予想が当たる面白さにはまってしまう。最初は小遣い程度でやってたが、たまに当たる。よく当たる。そうなると学業そっちのけで競艇場に通い詰める。2年間くらいは馬鹿ツキで5千万円以上の金が回ってきた。
自分には賭博の才能があるかもしれない…
妙な自信が沸いてきて思い込んでしまった。悪魔のささやきである。
しかし、はずれだすと2〜3カ月でパンクしてしまう。 学生ローンで金を借り、競艇につぎ込む。自分の名前では借りられなくなったら、友達の名を借りてまで借金をする。
その額1千2百万円也!
とうとう首が回らなくなり、実家の父に借金の尻拭いをしてもらう羽目に。
順風満帆から奈落の底へ…
大学4年で中退。志半ばで、帰郷する…
人生の挫折、生きる目標を失い沖縄に帰って来たが、何をしたらよいのか分からず、父との気まずさや心苦しさ、恥ずかしさから逃れたい一心で家を飛び出す。
(4)5年間の逃亡生活
福岡に飛び出して、住み込みの日雇い労務をやり、そこに集まってくる人たちの夢のない人生を垣間見ることができた。
かと言って自分は簡単には沖縄へ帰ることのできない身の上…
学生時代に寿司屋でアルバイトをしていたことがあるが、ある日寿司屋の大将の前で真似事をすると「お前、上手だ!」とおだてられその気になる。そのまま住み込みで寿司屋で働くことになり、仕事に集中する。
そこからたえず上へ上へと目指し、高校〜大学で野球を通して得たファイティングスピリッツで頑張り抜いた。
後に福岡でも飲食業界No.1の売上を誇る『ふよう』に入ることができた。
そこでは仕出し(大相撲福岡場所、博多新幹線、機内食、有名大手デパート)について、その分野でのエキスパートを肌で感じることができた。
『ふよう』では余暇を利用して草野球も始めることができた。仕事への集中力も絶やさず働きやすい環境を築けた。
当時、福岡では活魚ブーム。新規オープンの店から声が掛かった。そこで魚料理に関してはある程度自信が持てるようになり、初めて手に職を持てた気持ちになった。
(5)福岡から神奈川へ
向上心はどんどん強くなり、やがて東京(首都圏)に目が向くようになった。
『江戸一』は神奈川県の小田急相模原駅近くにある。そこ野房社長は、料理店と不動産業も経営していた。地域のロータリークラブの会員でもあり、客層もワールドクラスで活躍している人が多かった。
北里大学の接待の場でもあり、芸能人や著名人のお客様とプラス思考的な会話やお話を聞くことができ、自分の人間形成と人生に対する心構えの基本など多くのことが学べた。
沖縄の両親を神奈川に招いたのはこの頃。ほぼ5年ぶりに実家に電話を入れたのである。
両親の前でこれまでの反省と今後の見通しが話し合えた。
そのときは神奈川の野房社長の近くでビジネスパートナーとして、一生お付き合させていただきながら頑張るつもりでいた。
(6)再び沖縄へ
義兄からの依頼を受け、尚学院の学生食堂立ち上げの話があり、経営者としての一歩を自信満々で踏み出した。
しかし予定外の売り上げ不振に落ち入り、経営の難しさを痛感することに。
新しい分野でのコストバランスがうまくいかず悩み抜いた。いろいろと工夫を重ね、どうすれば売り上げを作れるかを考える日々。そのときに妻と出会う。
平山司氏(現SOLA沖縄副理事長)の紹介等で生き地獄へ急降下して妻には大変申し訳なく思っている。
売上をあげるには外部発注へ目を向けるしかない。以前に福岡で経験した仕出しのリサーチを始めるると面白いことが分かった。
当時、お米と水にこだわり、白米をアピール、沖縄の弁当の主流がのせのせ弁当だが、私が久茂地のオフィス街向けて売り出したのが、ご飯とおかずを完全に分けた二段式弁当だった。
すぐさまヒットし、宅配弁当の草分け的(パイオニア)存在となる。
シェアー率No.1の実績。「ボックストランチ」はピンクの宅配車で、ブームを巻き起こした。
モトローラの無線を駆使しデリバリーを極め、年商1億3千万円、従業員50人のリーダーとして、活躍し注目されていた。ベンチャー企業のはしりであった。
28歳の頃である。
(7)大里工場物語
那覇市の辻店での容量もオーバーし、沖縄ファミリーマートさんの依頼を受け、最先端の食品工場トーカツフーズの工場を見学するチャンスがあった。いまやっていることと結びつきビジネスチャンスの手応えがあったので、設備に1億円余りを投じて大里工場を立ち上げた。そこからの仕事の広がりも、信用もグレードアップしていった。
予定通りに、コープ沖縄、丸大、かねひで、ヨシケイ沖縄、ダイエー等の受注ができた。1日の売上が1千万円という日もあり、これでやっと親に対しての償いができると思い夢中で働いた。
次なる目標が組織作りと人材育成。中長期計画に沿ってビジネス感覚でもマニュアル(仕事に対してのモラル)やルール作りが周囲に思わぬ誤解も受け、組織作りの難しさを感じた。それらを乗り越え本格的に企業化する決意でいた。
しかし、バブルがはじけ、義兄の倒産等で自分にもかなりの負債がかかった。当然、親戚や友人を巻き込んでしまった。
信用がつけばつくほど、周りに対して被害を拡大してしまうことも分かった。
人生の落とし穴から、金融の仕組み、人の心の動き、自分の迷い、ありとあらゆる角度から、物事(世の中)を考察するチャンスに巡りあえた。
振り返りると気付かされることが多く、物事がはっきり見え、これからどうする、こうすればこうなるとの謎が解け、悟りを開いたようだった。
つぶれる前の資金繰り(手形、小切手)の大変さに比べれば、当時見切ることのできなかった自分がよく見える。
残念ながら工場は閉鎖に追い込まれたが、かろうじて味八城(みやぎ)があり、食いつなぐことと借金返済へ向かうことができた。自己破産するか前向きに仕事で返済するしかなく、頑張る気持ちになれた。
若い時の経験で「こんなに大変なことはない」ことも分かっていた。そして不動産屋の悪い部分と人間の醜い部分も知った。金銭管理の大切さ(抵当権設定)を知った。自分の力以上に「お金を貸さない、借りない」ことである。
(8)竹内社長との出会い
工場の処理問題で沖縄製粉(竹内聡社長)との出会いがあり、時代にマッチした業種として話がついた。自分との給料の件で話し合いがつかず、自分抜きでスタートした。
すると設立当初から赤字続き。そこへやっと自分に声がかかり、工場再建ということになる。
工場のすべてを分解し、悪いところの洗い直しを行い、原因を明確化してレポートにして提出した。沖縄製粉では私のレポートを参考に糸満工場移転計画の運びとなった。
総工費4億5千万円を投資、まもなく年商10億近い黒字企業へと変身した。
人生の落とし穴から(どん底から)親、兄弟、夫婦(家族)を含め、いろんな作用が現れる。
生きる自信がなくなり、迷いや苦しみから逃れるために生命保険の6千万円で穴埋めする死を選ぶ発想。それによる清算の方法も考えた。
そんなときに沖縄製粉との出会いがあり(NCF)の工場長として働くことができたのである。
沖縄製粉の看板で、得た人脈や情報、仕事人としての自分の能力をアピールする絶好の機会をいただくことができた。
企業化の成功事例は、作り上げることができた。
目標の違いなどから沖縄製粉を辞職し(充分な恩賞もいただいた・感謝!)
現在は少し離れている。
(9)新たなネットワークの構築
そこで人生をもう一度深く見つめ直し、迷い苦しみ、死のギリギリからやっと見えたもの、人生を楽に生き抜く人のためにやるべきことが、自分のための一番の近道であることが分かり、コツが掴めた。約40年かかったがすべてムダではなかった。
そこから始めて、目標設定とゴールまでの距離が分かり、自分の経験の中から構築された物の考え方ひとつでやれる自信が溢れ出している。良いことをし、行動を起こし、ネットワーク作りを始めている。
福岡、東京で学んだことや見えてたことが、沖縄に帰り仕事を始めると勉強済みであったため、再現フィルムを見ているように、自分の得意分野である食品製造においては、絶対的な自信がある。
有言実行し行動することの大切さ、徹底的に仕込まれたため結果を残し勝ち抜くセオリーが確認できた。それらのことにより、かつて天狗になっていた自分が今になって気付かされるのである。
現在、私は地域のために何をしたらいいか考え続けながら、「人、物、金」の健全な流れを作り出している。
…………………………………………………………
最後まで読んでくれてありがとうございます。
さらっと走り読みした方でも、またいつでも読めるように
ブログ右上の「目次・記事項目」のトップ
「自己紹介です」に置いときますから
またいつでも押して開けられてどうぞお読みください。
コメント・感想に対する返事はすぐにうまく書けないかもしれません。
それぞれの人生です。お互いに頑張っていきましょう。
よろしくお願いします。
私と関わりのあったすべての皆様に感謝申し上げます。
ハンドルネーム:豊見城高校野球部11期・おーざとのたーしー
別ブログ:「島らっきょうだより」→島らっきょう
本名:宮城 正(みやぎ・ただし)
昭和36年(1961年)2月9日生
住所 沖縄県南城市大里
家族 妻・長女・次女・長男の5人家族
学 歴
昭和51年(1976年) 3月 大里村立大里中学校卒業
昭和54年(1979年) 3月 沖縄県立豊見城高等学校卒業
昭和54年(1979年) 4月 九州共立大学経済学部経済学科入学
昭和57年(1982年)11月 九州共立大学経済学部経済学科中退
職 歴
http://www.luckey.jp/ から入って
「プロフィール」と併せてご参照ください。
ここでは、
私の半生を9イニングに分けて
一気に書き上げます。
(1)小・中学時代
野球は小学校の遊びの中から興味を持ち、最初は何も分からずに興じていた。
その後、スポーツを通して様々な出会い、仕事(ビジネス)を通しての出会い、地元の大里に帰ってからの商工会青年部を通しての出会いに恵まれる。
(大里発、福岡・神奈川経由大里行き…)の私の人生である。
今年(2008年)で47歳になった。今後に向けてこれから一日一生の気持ちで物事に取り組んでいきたい。
中学校の頃、人気バンドのチューリップや歌手の河島英五らのコンサートを生で観た。本物の歌やライブの臨場感を感じたことがある。また陸上のトップアスリート(瑞慶覧さん)の指導も受けており、一流の凄さを体感。野球では江川卓(作新学院〜巨人)を若夏国体で見たが、ボールの速さにド肝を抜かされたことがある。何事も実体験の重要性を感じた。
音楽・スポーツだけでなくビジネスも同じ。
(2)高校時代
沖縄海洋博覧会の年、昭和50年(1975年)に甲子園で活躍した赤嶺賢勇投手に憧れて、翌51年に豊見城高校へ進学した。
豊見城高校野球部黄金時代(栽監督スパルタ野球)の真っただ中に身を投じる。
同期の石嶺和彦(現中日ドラゴンズ打撃コーチ)を中心に、リリーフ投手して活躍、ピンチを凌ぎ沖縄県勢として九州大会初優勝の立役者となった。
春の選抜大会では優勝候補の呼び声が高かったが、1回戦で惜しくも敗退。しかし我々11期は3年連続となる春夏連続甲子園出場を果たし、さらに3年連続ベスト8という偉業を成し遂げた。11期の戦績は、1977年秋の九州大会優勝、県内では無敵、甲子園春夏2勝2敗。
(参考までに)↓↓↓
http://www.mm24mm.com/tomishiro.html(豊見城高校野球部甲子園での戦績)
沖縄の高校球界で初の九州大会制覇。その時にリリーフとして優勝に貢献できた。自分が奇跡(まぐれ)を起こしてしまい運を使い果たしたのかと、後で思い悩むこともあった。
当時は大里中学出身者の甲子園出場ということで、地元からも多くの寄付が集まり人の善意を有り難く感じていた。
高校卒業後は、大学に進学。 スポーツ推薦で九州共立大学に入学した。
(3)大学時代
将来は教員か野球関係の職に就きたいと漠然と考えていたが目標がはっきりせず、ぼんやりとした不安の中で学生生活を過ごしていた。
ある日、当時の前監督に(息抜きのつもりだったのだろう)競艇場に連れ予想が当たる面白さにはまってしまう。最初は小遣い程度でやってたが、たまに当たる。よく当たる。そうなると学業そっちのけで競艇場に通い詰める。2年間くらいは馬鹿ツキで5千万円以上の金が回ってきた。
自分には賭博の才能があるかもしれない…
妙な自信が沸いてきて思い込んでしまった。悪魔のささやきである。
しかし、はずれだすと2〜3カ月でパンクしてしまう。 学生ローンで金を借り、競艇につぎ込む。自分の名前では借りられなくなったら、友達の名を借りてまで借金をする。
その額1千2百万円也!
とうとう首が回らなくなり、実家の父に借金の尻拭いをしてもらう羽目に。
順風満帆から奈落の底へ…
大学4年で中退。志半ばで、帰郷する…
人生の挫折、生きる目標を失い沖縄に帰って来たが、何をしたらよいのか分からず、父との気まずさや心苦しさ、恥ずかしさから逃れたい一心で家を飛び出す。
(4)5年間の逃亡生活
福岡に飛び出して、住み込みの日雇い労務をやり、そこに集まってくる人たちの夢のない人生を垣間見ることができた。
かと言って自分は簡単には沖縄へ帰ることのできない身の上…
学生時代に寿司屋でアルバイトをしていたことがあるが、ある日寿司屋の大将の前で真似事をすると「お前、上手だ!」とおだてられその気になる。そのまま住み込みで寿司屋で働くことになり、仕事に集中する。
そこからたえず上へ上へと目指し、高校〜大学で野球を通して得たファイティングスピリッツで頑張り抜いた。
後に福岡でも飲食業界No.1の売上を誇る『ふよう』に入ることができた。
そこでは仕出し(大相撲福岡場所、博多新幹線、機内食、有名大手デパート)について、その分野でのエキスパートを肌で感じることができた。
『ふよう』では余暇を利用して草野球も始めることができた。仕事への集中力も絶やさず働きやすい環境を築けた。
当時、福岡では活魚ブーム。新規オープンの店から声が掛かった。そこで魚料理に関してはある程度自信が持てるようになり、初めて手に職を持てた気持ちになった。
(5)福岡から神奈川へ
向上心はどんどん強くなり、やがて東京(首都圏)に目が向くようになった。
『江戸一』は神奈川県の小田急相模原駅近くにある。そこ野房社長は、料理店と不動産業も経営していた。地域のロータリークラブの会員でもあり、客層もワールドクラスで活躍している人が多かった。
北里大学の接待の場でもあり、芸能人や著名人のお客様とプラス思考的な会話やお話を聞くことができ、自分の人間形成と人生に対する心構えの基本など多くのことが学べた。
沖縄の両親を神奈川に招いたのはこの頃。ほぼ5年ぶりに実家に電話を入れたのである。
両親の前でこれまでの反省と今後の見通しが話し合えた。
そのときは神奈川の野房社長の近くでビジネスパートナーとして、一生お付き合させていただきながら頑張るつもりでいた。
(6)再び沖縄へ
義兄からの依頼を受け、尚学院の学生食堂立ち上げの話があり、経営者としての一歩を自信満々で踏み出した。
しかし予定外の売り上げ不振に落ち入り、経営の難しさを痛感することに。
新しい分野でのコストバランスがうまくいかず悩み抜いた。いろいろと工夫を重ね、どうすれば売り上げを作れるかを考える日々。そのときに妻と出会う。
平山司氏(現SOLA沖縄副理事長)の紹介等で生き地獄へ急降下して妻には大変申し訳なく思っている。
売上をあげるには外部発注へ目を向けるしかない。以前に福岡で経験した仕出しのリサーチを始めるると面白いことが分かった。
当時、お米と水にこだわり、白米をアピール、沖縄の弁当の主流がのせのせ弁当だが、私が久茂地のオフィス街向けて売り出したのが、ご飯とおかずを完全に分けた二段式弁当だった。
すぐさまヒットし、宅配弁当の草分け的(パイオニア)存在となる。
シェアー率No.1の実績。「ボックストランチ」はピンクの宅配車で、ブームを巻き起こした。
モトローラの無線を駆使しデリバリーを極め、年商1億3千万円、従業員50人のリーダーとして、活躍し注目されていた。ベンチャー企業のはしりであった。
28歳の頃である。
(7)大里工場物語
那覇市の辻店での容量もオーバーし、沖縄ファミリーマートさんの依頼を受け、最先端の食品工場トーカツフーズの工場を見学するチャンスがあった。いまやっていることと結びつきビジネスチャンスの手応えがあったので、設備に1億円余りを投じて大里工場を立ち上げた。そこからの仕事の広がりも、信用もグレードアップしていった。
予定通りに、コープ沖縄、丸大、かねひで、ヨシケイ沖縄、ダイエー等の受注ができた。1日の売上が1千万円という日もあり、これでやっと親に対しての償いができると思い夢中で働いた。
次なる目標が組織作りと人材育成。中長期計画に沿ってビジネス感覚でもマニュアル(仕事に対してのモラル)やルール作りが周囲に思わぬ誤解も受け、組織作りの難しさを感じた。それらを乗り越え本格的に企業化する決意でいた。
しかし、バブルがはじけ、義兄の倒産等で自分にもかなりの負債がかかった。当然、親戚や友人を巻き込んでしまった。
信用がつけばつくほど、周りに対して被害を拡大してしまうことも分かった。
人生の落とし穴から、金融の仕組み、人の心の動き、自分の迷い、ありとあらゆる角度から、物事(世の中)を考察するチャンスに巡りあえた。
振り返りると気付かされることが多く、物事がはっきり見え、これからどうする、こうすればこうなるとの謎が解け、悟りを開いたようだった。
つぶれる前の資金繰り(手形、小切手)の大変さに比べれば、当時見切ることのできなかった自分がよく見える。
残念ながら工場は閉鎖に追い込まれたが、かろうじて味八城(みやぎ)があり、食いつなぐことと借金返済へ向かうことができた。自己破産するか前向きに仕事で返済するしかなく、頑張る気持ちになれた。
若い時の経験で「こんなに大変なことはない」ことも分かっていた。そして不動産屋の悪い部分と人間の醜い部分も知った。金銭管理の大切さ(抵当権設定)を知った。自分の力以上に「お金を貸さない、借りない」ことである。
(8)竹内社長との出会い
工場の処理問題で沖縄製粉(竹内聡社長)との出会いがあり、時代にマッチした業種として話がついた。自分との給料の件で話し合いがつかず、自分抜きでスタートした。
すると設立当初から赤字続き。そこへやっと自分に声がかかり、工場再建ということになる。
工場のすべてを分解し、悪いところの洗い直しを行い、原因を明確化してレポートにして提出した。沖縄製粉では私のレポートを参考に糸満工場移転計画の運びとなった。
総工費4億5千万円を投資、まもなく年商10億近い黒字企業へと変身した。
人生の落とし穴から(どん底から)親、兄弟、夫婦(家族)を含め、いろんな作用が現れる。
生きる自信がなくなり、迷いや苦しみから逃れるために生命保険の6千万円で穴埋めする死を選ぶ発想。それによる清算の方法も考えた。
そんなときに沖縄製粉との出会いがあり(NCF)の工場長として働くことができたのである。
沖縄製粉の看板で、得た人脈や情報、仕事人としての自分の能力をアピールする絶好の機会をいただくことができた。
企業化の成功事例は、作り上げることができた。
目標の違いなどから沖縄製粉を辞職し(充分な恩賞もいただいた・感謝!)
現在は少し離れている。
(9)新たなネットワークの構築
そこで人生をもう一度深く見つめ直し、迷い苦しみ、死のギリギリからやっと見えたもの、人生を楽に生き抜く人のためにやるべきことが、自分のための一番の近道であることが分かり、コツが掴めた。約40年かかったがすべてムダではなかった。
そこから始めて、目標設定とゴールまでの距離が分かり、自分の経験の中から構築された物の考え方ひとつでやれる自信が溢れ出している。良いことをし、行動を起こし、ネットワーク作りを始めている。
福岡、東京で学んだことや見えてたことが、沖縄に帰り仕事を始めると勉強済みであったため、再現フィルムを見ているように、自分の得意分野である食品製造においては、絶対的な自信がある。
有言実行し行動することの大切さ、徹底的に仕込まれたため結果を残し勝ち抜くセオリーが確認できた。それらのことにより、かつて天狗になっていた自分が今になって気付かされるのである。
現在、私は地域のために何をしたらいいか考え続けながら、「人、物、金」の健全な流れを作り出している。
…………………………………………………………
最後まで読んでくれてありがとうございます。
さらっと走り読みした方でも、またいつでも読めるように
ブログ右上の「目次・記事項目」のトップ
「自己紹介です」に置いときますから
またいつでも押して開けられてどうぞお読みください。
コメント・感想に対する返事はすぐにうまく書けないかもしれません。
それぞれの人生です。お互いに頑張っていきましょう。
よろしくお願いします。
私と関わりのあったすべての皆様に感謝申し上げます。









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